電脳けん玉職人

らくがき

ソポクレス『オイディプス王』

f:id:takenokochan104:20191203201243j:image

 

いや、あの『オイディプス王』である。ついに。


古典というものは、読む前から結末を知っているものと相場がきまっている。僕もフロイト先生の「オイディプス・コンプレックス」をチラ見した結果この作品の結末を知り、ストラヴィンスキーの「オイディプス王」を観て何か言ってらあと思い(フィンランド語とラテン語のミックス上演だったので耳からの理解は不可能だった)、三流文学やらクソバカ映画やらの陳腐なオイディプス・オマージュを見てはくだらねーなと思っていた。


クラシック音楽のオタク仲間であり、僕と同じく地方から東京に出てきた友人が「田舎で最先端のものを知ろうと思ったら、逆説的だけど古典に触れるしかない」と言っていて、なるほどと思った。IT化だか何だか知らないけど、都市と地方の情報格差はいまだに酷いものだ。なんならより酷くなってるかもしれない。村田沙耶香の新刊を速攻で買えるのも、トークショー&サイン会に気軽に行けるのも、そもそも村田沙耶香の存在を教えてくれるコミュニティがあるのも、全部都会の特権なんだよマジで。

そんな中で「最新の知識」(西洋中心主義的だ)を追おうとしても無理。「都会ではコレが人気!」と言われるものは、だいたいが5000年前に都会で発掘された化石だ。そんなことならいっそ、「みんなの常識」である古典にいっぱい触れた方がよっぽど良い。

実際これは僕と友人が上京してからバチバチに痛感したことだ。渋谷の流行りの店は知らなかった(今も知らない)けど、モーツァルトの話で都会のオタクたちと仲良くなった。社会学の教員が冗談交じりで例示するネットスラングは分からなかったけど、ナチスによるワーグナーの利用を知っていたおかげでAプラスの成績がもらえた。お偉いさんとお話ししなくてはいけない時も、基本的に指揮者の悪口で盛り上がることができた。コミュニティやら成績やらお偉いさんとの付き合いが全てだとは思わないけど、親戚の殆どが大学に行っておらず、情報のない田舎で育った人間が、不安に駆られ都会を生き抜くなかで、クラシック音楽やその他古典芸術の「教養」(嫌な言葉だ)は心強い杖となったし、今もなっている。


さて、あの『オイディプス王』である。古典中の古典。傑作中の傑作。全ての文学の「生みの親」。あらゆる名声をほしいままにしてきた作品を、ようやく読んだ。

 

 

 

凄かった。

 

 

 

ダサい。あまりにダサい感想だ。小学2年生でもこんなことは言える。……でもこれ以上のことを言う気にはなれない。なんてったって「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタイン先生も言ってるしね。いけすかないドビュッシーも言葉がなくなってから音楽が云々と言ってたし、他の誰かも似たようなこと言ってると思う。たぶん。


いや実際、どんな言葉を費やしたところで、あのテクストのスピード感、切迫感、全世界から個人の内面までを縦横無尽にかけめぐる様、合唱隊が登場する完璧なタイミング、緩急、長さを感じさせない長大な独白などを再現できるわけがない。文学について何かを書くこと、および批評をすることの馬鹿らしさをここまで感じさせる作品ってなかなかない。


偉大な作品は人々を失語に追い込むと同時に饒舌に追い立てる。実際ぼくも「失語」という様をひたすら語っている。無様だ。でも無様であることをわかりつつも語らざるをえない。語ってしまう。たぶん他の人たちも半ば狂ったように語り語り語ったのだろう。そして作品は生き延びた……これが古典の力かと痛感する。

 


文章の書き方講座だったら、前半に入れたエピソードトークと結論を結びつけてオシャレに決めましょうとかいうと思う。たぶん芸人のネタ作成講座とかでも。ただ、今回はそんな気になれない……つまり「オイディプス王を読んで得た教養」が社会を生き抜く上で云々みたいな話はできない。というかする気が起きない。あまりにテクストに圧倒されて、そこまで考える余裕が今はない。


この作品は間違いなく再読が必要だと思う。ただ、それはすぐにではなく10年後とかのスパンで。感動をいったん鎮静化し、この作品の持つ社会的文脈や、自分の抱いた/書いてしまった感想を客観視し、かつそれらを忘れた上でもう一度対峙しなくてはいけない。理由はわからないけど。たぶんこんな直感を抱かせるのが古典のもつパワーなのだろう。


水泳選手は自らの泳ぎを客観視して、次回の方針を立てる際の資料としなくてはならない。しかし、その前提となるのは「客観視とかどーでも良くなるくらい、泳ぐことが楽しくて仕方がない」という心だろう。僕もしばらくは泳ぎそのものを楽しんでいたい。

 


2019年12月3日読了