江口聡『ポルノグラフィに対する言語行為的アプローチ』
1議論の背景
「道徳規範の維持」でなく「女性への差別撤廃」という観点から行われた、1980年代のマッキノンによる反ポルノ運動を取り上げ、それが「言論の自由」を侵害するものであるという批判が紹介される。
2 ポルノグラフィに対する1980年代までのアプローチ
ポルノグラフィに対する1980年代までのフェミニズム的アプローチとして、性暴力アプローチ、名誉毀損アプローチ、搾取アプローチ、「モノ化」アプローチの4つが紹介される。
3 言語行為論アプローチ
3−1 オースティンの言語行為論
発話によって行う行為は「発話行為」「発話媒介行為」「発話内行為」の3つであるとしたオースティンの議論が紹介される。
3−2 ポルノグラフィは女性を従属させる発話内行為である
オースティンの議論を踏まえてマッキノンを再解釈したラングトンの研究が取り上げられる。ラングトンはポルノグラフィを単なる「表現」でなく「行為」とみなしてマッキノンを読む。その上でポルノグラフィは女性を従属させる発話内行為であるとする。
3−3 ポルノグラフィは女性の重要な発話行為を無効にする行為である
女性による「発話行為」「発話媒介行為」「発話内行為」の3つが、ポルノグラフィの影響により(現実で)「消音される」ことがあると指摘。
4 ラングトンの議論の検討
4−1 J.S.ミルにおける言論の自由
ミルは「自由」を提唱したが同時に「危害原理」も提唱しており、行為が意見と同じように自由であるべきだとは主張せず、同時に意見も物理的危害を加えるときは禁止されるとする。ただ、これはヘイトスピーチのような「精神的」な「危害」を加える「意見(表現)」についてカバーできていない。
これをオースティンの文脈で捉えれば、そのような「発言(意見、表現)」は「発話媒介行為」となる。
4−2 ポルノグラフィはどのような意味で権威か
ラングトンはポルノグラフィを「発話内行為」とするが、発話内行為には権威と精度が必要だが、個々の製作者、個別の行為は「権威」とはみなし得ない。
4−3 ポルノグラフィは女性の拒否を不可能にするか循環論法からの側面と、「そもそもオースティンが想定した発話内行為の前提たる『慣習』は、言語の使用に関する慣習であって、倫理的な振る舞いに対する慣習ではない」という側面から「ポルノグラフィは女性の拒否を不可能にする」というテーゼを否定する。また、「ノー」を「ノー」として理解することと、「ノー」を「イエス」として理解することには大きな違いがあるとする。
5 結論
ラングトンは発話媒介行為と発話内行為を混同していると指摘し、バトラーのラングトン批判におけるズレを指摘する(政治的な批判でなく言語面での批判をするべきと指摘)。そして「発話媒介行為」としてポルノグラフィを研究するなら、ファンダム研究が必要だとする。
2019年12月4日読了