電脳けん玉職人

らくがき

伊藤比呂美&上野千鶴子『のろとさにわ』

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伊藤比呂美の朗読を初めて聴いた時、その音楽性に驚愕し、絶対にこの人はミニマリズムの影響を受けていると思った。のちに個人的にお話しする機会を何度か得て、伊藤さんがクラシック音楽ファンであること、そしてスティーヴ・ライヒファンであることを知り自分の勘もたまには当たると嬉しくなったがそれはまた別の話。

閑話休題。『のろとさにわ』における伊藤の詩はやはり様々な意味において音楽的だった。詩を見ると伊藤の声が聞こえる。詩を読む時、そのリズムの良さに心地よさを覚える。そして反復と断絶の交歓に、自らの時間感覚は完全に支配される。冒頭に掲載された「意味の虐待」など、陳腐な言葉であるが「凄い」としか言いようがない。

 


わたしはわるい子でした

あなたはわるい子でした

わたしたちはわるい子でした

それはわるい

 

わたしは意味を剥がしとりたい

あなたは意味を剥がしとりたい

わたしたちは意味を剥がしとりたい

それは意味を剥がしとる欲望だ

 


ただ人称変化をしているだけと言われればそれまでであるのかもしれないが、そんなことを言うのなら詩なんて読まなくてもいいんじゃないかなと思う。反復の中で意味がどんどん消えていく様に、そして言葉がただの音に近づいてゆく様に、「意味」にがんじがらめにされた社会の抜け穴を見出す必要を感じなければ、その人にとって詩はただの言葉の羅列でしかないのだろう。今のところは。これから必要になるのかずっとそのままなのかは知らないけど。


閑話休題。本書は伊藤比呂美の詩と、それに対応した上野千鶴子のエッセイで構成されているのだが、このエッセイがまた強烈で、アクティビストの持つ言葉の威力が存分に詰まっている(ただ、上野氏の他の言論を見ていても思うのだが、決めつけが散見されるかなと感じる)。

「急げ。解釈が追いつく前に」という印象的な一言は、叫ばれたのか、呟かれたのか、それとも発話しようとする時点で「解釈」に追いつかれているのか。解釈は「追ってくる他者」なのか、「内なる自分」なのか。これらの問いに答えようとした途端に「解釈」は追いついてくるだろうからここで筆を置く。

 

2019年12月3日読了