電脳けん玉職人

らくがき

ダグラス・サーク監督『悲しみは空の彼方に (Imitation of Life) 』

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「親殺し」の物語であったと思う。同じ屋根の下に住む白人の母娘と黒人の母娘(娘は白人とのハーフ)が、それぞれ子を愛し、親を疎む。その様は原題が示すように、非常に「似ている」。

 


白人の母ローラは、役者としてスターダムを駆け上がり、売れない時期に付き合っていたスティーヴとの再会を果たし接近してゆくが、忙しさゆえに娘スージーの面倒を見る余裕はなく、黒人の母であるアニーに世話を任せる。アニーの娘であるサラ・ジェーンは、白人の見た目である以上「自分が黒人であること」をひた隠しにするが、学校で、ボーイフレンドとのデートで、アルバイト先で、その秘密は母より暴露され続けてしまう。


スージーからローラへの「殺意」は、「寂しさ」と「自分の好きな人を奪った憎しみ」という2つにより生じたものだろう。たしかにローラはスージーをこよなく愛する。大きな家に引っ越し、学費を払い、さらには馬までプレゼントをする。しかし役者業の多忙ゆえ、娘と共にいることは叶わず、結局はスージーに「私と一緒にいてくれたことはある?」と問われてしまうのだ。さらに、ローラが復縁したスティーブに、スージーは恋心を抱いてしまう。ローラが頼んだ「お世話係」としてのスティーブに熱を上げ、一緒にダンスをしたり、無理してお酒を飲もうとしたり、恋の相談を持ちかけたりする様は、見ていて少々辛くなってしまう。その心を知らず、スティーブとの結婚を嬉しそうに報告してしまうローラとのすれ違いは、「子の心親知らず」という格言を我々に思い起こさせるだろう。結局ローラはアニーから話を聞き、スージーの恋心を知る。アニーの制止を振り切りスージーのもとへ向かうも「大事なことはいつもアニーから聞くのね」と言われてしまうのだ。「あなたのために結婚を取りやめる」と提案するも、「家の中で芝居はしないで」と返される。子育てをしない役者としての母と、圧倒的優位にいながらその勝利を取り下げるような振舞いをする恋敵としての母への、二重の批判となる痛烈な一言だろう。結局はスージーは遠方の大学への進学を決め、象徴としての母を殺す。ただ、それはある種の「親離れ/子離れ」となのかもしれない。


黒人と白人のハーフであり、白人の見た目をしたサラ・ジェーンの親殺しは、もっと苛烈だ。

サラ・ジェーンの母アニーは、いわゆる「黒人らしい見た目」の人物である。したがって、白人として生きたいサラ・ジェーンにとっては、アニーと一緒にいる姿を見られること、そしてアニーが母であることを知られることは大きな屈辱だ。それにも関わらず、アニーはサラ・ジェーンに介入しようとする。しかも、「黒人であることを恥じてはいけない」というセリフとともに。これは社会運動におけるアイデンティティ・ポリティクスとも通じる問題だ。例えばゲイであることをオープンにしてその権利要求をする当事者と、ゲイであることを隠しながら平和に暮らしていきたい当事者の間には大きな隔たりがある。どちらも「ゲイが安心して暮らせる社会」を希求しているが、実際に取る行動は逆であり、悲しいことに、多くの場合対立してしまう。

「白人に同化したい」というサラ・ジェーンの思いは切実だ。お人形遊びの時も黒人の人形は手にしないし、自分と同じ血が流れているか確かめるためにスージーを傷つけてしまう。さらにはアニーが忘れ物を届けに学校へ来た時は、あまりの恥ずかしさから逃げ出してしまう。確かに過激と言えるかもしれない。しかし当然ながら、その背景には凄まじい差別が存在する。黒人であることを知ったボーイフレンドからは暴力を振るわれ、アルバイト先は追放される。差別は身内にも存在し、サラ・ジェーンにボーイフレンドがいることを察したローラは笑みを浮かべながら「あの家の運転手の息子さん?」と聞いてくる。サラ・ジェーンは、ボーイフレンドの存在を悟られること自体は嫌がっていない。むしろ、少しはにかんでいるくらいだ。ただ、それが「運転手の息子」と推測されたことに落胆する。それはもちろん、「黒人は黒人同士で付き合うものだろう」「黒人は基本的に地位の低い職にあるだろう(彼女の母のように!)」という差別的発想に、そしてその差別的発想を第二の母とも言えるローラですらも抱いていることに絶望したからだろう。同じような差別は、自宅でのパーティにおいて当然のように配膳を頼まれるシーン(アニーと、もう一人の黒人の使用人とサラ・ジェーンのカットである)でも表れているだろう。結局サラ・ジェーンはキャバレーで白人としてこっそり働くことにした。それは信仰心の強い母、そして黒人であることを誇りに思う母を「殺す」ことなのだ。そしてアニーは実際心労から亡くなってしまう。

 


実の母娘だけではない、娘たちは義理の母たちとも関係を築く。ただしそれは「殺す対象」としてではなく、ある種の「仲間」としてだ。。スージーとアニーは「家庭でともにいること」に価値を見出すという点で連帯している。役者業で忙しいローラに対し、スージーと一緒に過ごすようアニーは度々要求するし、スージー自身も母と過ごすことを楽しみにしているシーンが何度か描かれる。「ママが帰ってきたら聞くことリスト」を読み上げる様子は、不覚にも涙腺が緩んでしまうだろう。結局スージーとローラが一緒にいる時間はほとんどなく、アニーとローラの擬似的な母娘関係が形成される。前述のスティーブへの恋心について、アニーしか知らされていなかったのは「ローラよりもアニーの方に親密な気持ちを抱いていた」ことの証左となるのではないか。


サラ・ジェーンとローラの関係はもっと複雑だ。そもそも、この二人が直接話をするシーンはあまりない。ただ、それらのシーンは「白人と黒人の対立」を示唆しているという点で重要だろう。前述の配膳を命じるシーンはまさに無意識のうちの差別を描いているし、その後サラ・ジェーンがふざけた格好で客に配膳をするシーンは「白人と黒人の対立」を意識した上での「仕返し」と捉えているといえる。また、キャバレーの踊り子として働くサラ・ジェーンは、役者であるローラと重なってみえるという指摘もできるだろう。ショービジネスの世界にいるという共通点のほか、「ある程度のセクハラは仕方ない」と割り切ってしまうような「規範の内面化」という共通点も浮かび上がってくる(初対面の時にセクハラ的対応をした人物の事務所に結局ローラは所属しているし、そのマネージャーがパーティーの場で女性に声をかける様を「またナンパしてる」とからかっている)。

 


アニーの葬式の場面が終わり、ローラ、スージー、そして帰ってきたサラ・ジェーンが車に乗り込むシーンは、彼女たちの関係を非常に象徴的に示しているだろう。ローラがハグをするのは、実の娘スージーでなく、サラ・ジェーンだったのだ。

 

2019年12月12日鑑賞@早稲田松竹