電脳けん玉職人

らくがき

小林賢太郎『こばなしけんたろう』

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コントや漫才および大喜利って、文字起こししても面白いか否かで大別できると思う。前者の笑いについて個人的には「システムの笑い」と呼んでいるのだけど、『こばなしけんたろう』はまさにシステム(だけ?)で押し切ろうとする作品だと感じた。

 

システムで笑いを取り続けようとすると、どうしても受け手を疲弊させてしまう。例えば、四字熟語のデタラメ解釈が連発される章において、読者は四字熟語の正しい意味を頭の中で常に確認する必要があるわけで、当然疲れてしまう。ひとつひとつの四字熟語は知っているし、特に難しいものはないのだけど、立て続けに提示されるとウッとなってしまう。普段は解けるはずの問題が、受験会場でなるアレみたいに。

 

ただ、それは同時に長所にもなり得る。脳みその普段使わない領域が常に刺激される感覚。これは病みつきになる。「その手があったか!」とこんなに言い続ける体験、なかなかない。

 

話は変わるが、僕は小林賢太郎さんのお笑いコンビ「ラーメンズ」が結構好きで、小林さんのソロの舞台(カジャラ)も観に行ったことがあるのだけど、それらにおいて感じたのは、「繊細な身体性」だった。ちょっとした目線、手の動き、明瞭な発音、間、その全てが完璧で、「パフォーマー」の称号がこれほどふさわしい人はいないと思った。

 

「システムとしての笑い」を追求する本書において、小林賢太郎の武器のひとつである「繊細な身体性」は排除されているのか、それとも別の形で希求されているのかは推測し難い。もちろん文字メディアである以上、身体性は基本的に諦めないといけないが、フォントやページの色の工夫により、身体感覚に訴えるアプローチはなされているようにも思える。ただ言えるのは、舞台上で小林賢太郎が魅せる身体性はここには存在しない。

 

システムの笑いと身体性の笑いーー作家の笑いと役者の笑いと言い換えてもいいと思うーーの2つを手中に収めた天才・小林賢太郎は、制約のある「本」というメディアで何をしようとしたのか。一方を失ってもなお自分の笑いは成立すると示したかったのか、はたまた、いかに身体性の笑いを本というメディアで成立させるかに執心したのかーー真相は藪の中。

 

2020年1月2日読了